昭和44年11月16日 朝の御理解

第66節 人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も     言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬ     る時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。


 えーこの御教えは、もちろん天地の親神様のおかげを受けなければ、どうにも出けない事ばかりなんですけれども。とりわけ、生まれる事だって、死ぬる事だって、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。それなのに、途中ばかりを自分の得手勝手な生き方をしておるという事を教えて下さってあるんですね。ですから、生きるも死ぬるも、であるならば、その、ちょっとこれ、ワンワン響くね、末永さん。ちょっと響きすぎますよ。(マイクのことを注意される)

 神様のお取り計らいによらなければならない。それを、私共は神様のお取り計らいではなくて、自分の取り計らいにしてしまうという所に、人間の幸福になれない元があるんだと。ね。生きるも死ぬるも、生まれて来る時も死ぬる時にも、そうでありますように。そんなら、その途中もそうなのだ。神様のお取り計らいによらなければならんのだと。

 そこで、神様のお取り計らい。それに、重々に。それに素直に頂いて行くという生き方を、教祖の神様は、ご自身が身を持て、身を持ってその事をなさり。こうしておかげを受けられる道を立てて下さった訳なのです。だからこの、66節は、その、そのような事だと、こう思うのです、ね。

 私共は、日々の生活そのものがです、神様のお計らいによっての事なのですから、そのお計らいを悟り、お計らいに、まあ言うなら場合には便乗し、場合にはその事に素直に受けて行くというような生き方。それを、真の信心という風に私共頂いております。ね、その事を教えて下さっておるのですけども、今日私、日柄が良いの悪いのと言うてと、こう言うておられます。

 その、ここのところをですね、話を聞いて、一応なるほどとは合点が行くのですけれども、ここには大変な一つの勇気のいる事なのです。例えばその、途中ばかりをとこう、途中を、例えば神様のお計らいのままに生きるという事は、簡単なようで、見やすいようであるけれども、実を言うたら大変も難しい、勇気のいる事なんです。

 言うならば、神様任せで生きて行こうと言うのですから、一つの問題の解決を願うに致しましても、ね。自分は右と思うけども、神様は左と仰って下さる事を素直に受けさえすれば良いのだけども、その事が実を言うたら難しいのです。ですから大変な勇気がいる事なんですよね。

 今日は合楽の青年会の方達が、大会を開きます。様々な幹部の方達は、おそらく昨夜は徹夜のようにして色んな準備に「おらわ?」であったと、こう思いますが。とりわけ、私はその、青年的信心とでも言おうかね。朝参り的信心とでも言おうか。いわゆるその、覇気に跳んだ信心。まあ、言うならば、若い物でなければ、やって退けられない信心。そういう信心をですね、私共は身につけて行きたい。

 年は、もう60になっておっても、70になっておっても、心は青年。いつも生き生きとして、朝参り的な信心が出けておる。覇気に飛んでおると。今日は私、今日の青年会の事をお願いさせて頂いておりましたら。高砂の爺婆を頂くんですよ。青年会の事をお願いするのに、もうそれこそ、白髪のおじいさんとお婆さんが、ね。あの松、松を背景に立っておられるというのがありましょう、高砂の爺婆。

 なにか、まちっと生き生きとしたお知らせを頂く。ところが反対にそういうような、その高砂の爺婆のそれを頂くんです。ね。私その、金光様の御信心がですね、例えば青年的、一つの覇気に跳んだ信心と、例えば教団が設立されます。独立致します為に活躍された、当時の先生方。例えば、佐藤先生、近藤先生、えー白神先生なんかっていう方達は、まあだ佐藤先生なんかは若干28歳だった。ね。

 このような有り難い道を、信心をです。教祖様御一代で終わっては勿体無い。何とかそれには、一つ組織を作るとか、ね。教団設立の事を願われたところが、教祖様が仰っておられる事は、この方は人が助かる事さえ出来ればけっこうであると仰った。ですから、その時もし佐藤先生が、ああそうでございますか。ああ、その、何がなくても、このような風にして人が助かって行っとるのですから、助かりさえすれば良いのであるなら、もう何もいりませんなあ、という風に引っ下がっておられたら、現、今日の金光教はなかった。
 ね、人が助かる事さえ出来れば結構であると仰るならば、いよいよ人が助かる事のためにです、教団の設立が尚更必要だという事を、に、にその、発癌された。そして、いわゆる同志的繋がりを持っておられる、その当時の先生方と話し合って、その事が、よりより進められて、教団設立がなったんです。ね、まだ28歳の若さであった。ですから、本当にそういう意味でですね、若さという物は、非常にその破棄に飛んでおりますから出来るです。

 ね、明治維新なんかでも、やはり当時の青年層によってなされたようにです。けれどもね、それが私はその、無謀な物であってはならないという事なんです。ね、「ドンキーホーテー?」的なものであってはならないという事なんです。ね、言うならば確信に満ちたもの。絶対のもの。そういう物がないようであっての、それでなからなければならない。
 ね、昔から、私共、子供の時から色んな童話を、おとぎ話なんかを聞いてきましたが。えー色々なあの、化け物退治なんかの、をテーマにしたその、お話がいくつもあります。ね、白羽の矢がその家に立ったら、その家の、例えば娘を「身黒いにしなきりして?」、その、化け物に持って行かんと、その、その村が潰れると。ほれで、人間を生贄にして、すると言ったような。

 そこを、通りかかったその、若い人が、ね。そういう事があるはずはないとして、その、その、娘に化けてあの、送られて行くと。そして、その化け物を退したり、悪人を退治したりするという、そのテーマのお話がございますでしょう。本当にですね、私共はね、本当にこの世に、もう本当に根強うそういう化け物的なものが沢山ある事なんですよ。その為にどれだけ難儀しておるか分からない。

 けれども、昔から言うてある事じゃから。ね、やっぱし昔の人が言うて来た事じゃから。不自由だけれども、困るけれども、それを甘んじて、それをやりきろうとするようなその、意欲ていう物がない訳なんです。また、ある宗教なんかは、むしろそれを看板のようにして、それをしとる所がある。昨日はあの、久留米の岡崎さん。青年会の岡崎さんが毎日お参りして見えてから。先生、昨日はある御信者さんのお家に行きました。

 それで、たまたま信心話なんかして頂いたら、はあ、お宅もそげん信心しなさるですか。私共も信心します、もう一家を上げて信心します。鳥栖の方が、鳥栖から久留米のこうせい会と。いわゆる日蓮様を拝む。相当、全国的に支部を持って、大きな活動をやっておりますですね。創価学会に次ぐ、やっぱり宗教団体なんです。久留米にその支部がある。ね、家族上げてその、そこにお参りさせてもらう。

 話を聞かせて頂きよったら、もう一つ一つがその、御霊様の関係であり、一つ一つが人間の幸せは日柄方位である。とにかく、井戸を一つ掘るでも、その先生の、にお尋ねをして、その方角の良か所に掘るという事。または、不幸せな事があっておると、その掘り方が悪いから、掘り返るとそこから幸せになって来るというような、おかげ話を聞いてきた。

 ほれで、えー私共が頂いておる金光様の信心な、それとは反対で。日柄方位は言わないという、まあ信心だと。まあ、信心な色んな流儀があるが、様々な成り行きがあるもんですなと言うて、お互いに話して帰ったという話をここでするんです。私共は金光様の信心を信じておる、金光教の信心を頂いて、しかも教祖の御教えを信じておる者は、本当に荒唐無稽、馬鹿のような話なのである。

 掘っておった井戸を掘り直したり、または井戸を掘るでも、いっちょ、いっちょお尋ねしてからここに掘らにゃいかんとか。家を建てるには、柱の、もう在り所から、その、まあ仏様のお心て言うですかね。それを聞いてしなきゃならん。もちろん結婚とか、様々な時には日柄をちゃんと選んでしなければ、その人間の不幸せの元をそういう時に作るのだというような、それが看板なんです、創価学会、じゃないその、校正会の。

 ですから、もう考えて見ると、その窮屈なんですけれどもです。しかし、それを有り難しと、まあ頂いておる信心。宗教の中にもそういう事を看板にしておる宗教すらがある中にですね、もう百年も前に、そういう日柄方位といったようなものを、はその、いわば迷信として教えておられる。教祖のその、何て言うか、英断と言うかね、元気な心と。

 そして、それをほんなら、日柄方位に順じなかったから、応じなかったから難儀な事が起こる、起こっておるかと言うと、ますますおかげを頂いておる。いや、むしろそういう事を言う事は、天地に対するところの、大変な御無礼だとしておられる。

 だからその事でも、理屈を頂きますとですね、教祖の仰られる事が素晴らしい事なんだけれども。やはり、元気な心がないと、それを、やはり「ですのや?」、やっぱ人に娘をやるとじゃから。はあ、やっぱ一人息子の嫁子をもらうとじゃから、良い日を選ばにゃというような事を。それはもう、むしろ天地に対する無礼になる事なんだけれども、それをやはり抜けきらない。ね。

 ね、この66節にありますようにです。生まれる時には日柄も言わんで生まれて来ておる。死ぬる時にはもちろん、日柄も言わずに走って、かけて、かけって「いねる?」とこ。ね、どうにも出来ない天地の親神様のお計らいによらなければ出来ない事なのだから、そんならその、中身であるところの私共の生活の内容と、ね。生まれてから死ぬる、その間の事もです、神様のお計らいによらなければ、天地の親神様のお計らいによらなければ、幸せになれない事をです、私共悟らせて頂くところから、お道の信心が生まれて来なければならん。

 またそこから、お道の信心があるのである。ですから、その神様のお計らいを、先ず私共は知る必要があるのです。ね、言うなら神様のお心を知らなければいけんのです。そこで神様の心に順、順応した生活。ね。もうその事を、まあ教えて下さってある訳なんです。途中だけを日柄の方位のと、まあ言う事は日柄方位に限った事ではありません。ね、いわゆる自分の得手勝手に考え、得手勝手な、言うならば考え、得手勝手と言うたらちょっと過言ですけれども。

 自分、自分がこれがええ、ああがええと言うて、いう生き方なんです。ね、そういう生き方では、幸せにはなれない。ね。神様のお計らいによらなければ、今日が立ち行かんのである。神様のお計らいを頂かなければ、人間の幸せはないと悟らせて頂いたら、神様のお計らいに、いわばゆだねる。任せきった信心生活という事がなされる。

 いわゆる本当の意味においての信心生活がなされなければならないという事を、教えておられるのですけれどもです。今日私は特に、日柄が良いの悪いのと言うて、というここんところをですね、私は青年的、覇気に跳んだ信心を致しておりませんとです、その事ですらがです、ね。それを、ね、断行して行けれると。ね。

 もう、本当にその、窮屈な事なんですよね。ですから、そこんところからその、救われる信心。それには元気がいる。この67節に、何事も釘づけではない、信心は命名にしておらねば長う続かぬと仰る。何事も長う続かぬ。何事も釘づけではないと。これは例えば現代の、教団の生き方なら生き方という事においてもです、ここは間違っておる。

 これよりも、これの方が良いという事を、私共が気づいたり発見した、そこんところを断固、断固としてです、そういう在り方に変えて行くというような生き方こそが望まれるのです。ただし、それは、ドンキーホーテー的な、無謀な事であってはならん。どこまでも確信に満ちた物でなからなければならない。それをやって退けれるのは、青年的、私は覇気が必要だと。ね、なら次のこの68節に参りますとです。

 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰る。ね、私共がそこに徳を受けていくには、雨が降るから,風が吹くからというような事ぐらいで、へこたれておるような信心。そこにも、やはり青年的な、覇気に飛んだ元気な信心をしとらんと、雨が降るから、風が降るからと言うて、じゅつのうなったり、しるしくなったりする。
 これはもちろん、雨やら、風と言うだけの事ではありません。人生の、言うなら雨風なのです。ね、そこに、やはり青年的信心、覇気に飛んだ元気な信心がなされておかなければ出来ません。もう今までの仕来りでやって来とるとじゃから。ね、というのじゃなくて、それは間違っておる、これが本当だという事だったら、そこを断固として、それは釘づけではないのであるから、信心は。そこんところを改めて行くという事にも、やはり覇気が必要であるという。ね。

 私は今日、青年大会のことを神様にお願いさせて頂きよったらです。ね。もう青年とは似ても似つかない、言うならば、松の大木をバックにした、いわゆる高砂の爺婆の姿を頂かせてもろうて、私は金光教の信心のですね、ぎりぎりのところは、ここが願いなのだと。ね。生きた御信心して長生きをせよと仰るが。その、その為にはです、私がさっきから申しますようにその、無謀な物であってはならないという事なんです。

 俺が命〔    〕けんでと言うて、その自分の身を、その、まあ〔こうもうのかるき〕に置くなんて言ったような事が青年に許された特権のように言う事は間違いなのである。ね、やはり長生きしなければならんのである。それには、そこに絶対な物がなからなけりゃいかんのである。ね。

 例えば、やりすぎるような事があっても、そのやりすぎるその事すらがです。ね、確信に満ちた物でなかなきゃいけない。私は考えてみて、ちょっとやりすぎだったかなと思うようなものである。やっておる時には、もう確信に満ちた物。ね。例えば、日柄方位といったような、例えば本当に、私は化け物退治のような感じがするんです、この事頃は、ね。

 金光様の御信心を少し分かってきてから、さあ何事かの時に日柄方位を今まで重んじて来た人達がです、それをスパッ。家はもう金光様の信心しよりますから、日柄も方位もいりませんと言えれるという事は、やはり元気な心がなからなければ出来るこっちゃない、神様を本当に信じなければ出来る事じゃない。

 いや、その事を、一つの看板にして、例えば日柄方位を言う事を看板にしておる宗教すらが、片方にはあるくらいなのですから、同じ拝むと言うても、信心すると言うても。だから、そういう事を打破して行こうと言うのですから、やはりこれは化け物胎児に、若者が立って行くくらいな元気な心がなからなければ出来ない。そしてその、正体を見届けてです。

 なるほど、〔ぐ〕にも付かない荒唐無稽の物であったという事をです。ね、実証して行くところの、私は信心という事には、やはり生き生きとした、喜びに満ちた青年的信心でなかなければならないという事。ね。そこで私は思うんです。ね、例えば青年会の、今日その大会の事をお願いさせてもらって、高砂の爺婆の事から関連して考えさせてもらうところにです、金光様の御信心は確かにですね、と言うてその、もう石橋をあたえ、称えて渡るといったような、その慎重さと。こんな事しよったら何も出来んと。

 と言う、それもありますけれどもですね。その、称えて渡るというのじゃないけど、その確信に満ちたですね。そういう事があろうはずはないじゃないかと。今ごろの時代に化け物が出るはずはないじゃないかと。なるほど教祖様が仰るようにです。日のお照らしになる日にです、良いの悪いのという日があるはずはないじゃないかと。

 ね、そういういわば信心を続ける。日柄方位だけの事じゃないです、全ての事がそうなんです。ね、ですからですね、そこにその、何ですかね。えー。とにかく自分が犠牲になればいいと言ったような、そういうもんじゃないちゅう事です、ね。その事だって、自分が例えば命を落とすような事は絶対ない事を信じての物なの。そこで、そのまたの御教えにですね、おかげは受け徳、受け勝ちと言うのがありますよ。

 ね、ほほお、金光様の御信心な、ならその、おかげは受け儲けだといったような感じに受けずにです。ね、そういうような受け方をするところに、もう青年的信心の欠陥があるんです。ね、ですからそこんところの御教えでも、おかげは受け徳、受け勝ち。おかげは受け設けといったような物ではなくてです。確かに受け徳なのだという事です。

 ね、徳を受けた者が勝ちだという事なの。ね。ですから、もうその、言うなら青年的な信心によって、徳を受けるという事。ここに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんといったような信心をさせて頂いてです。そこから、生き生きとした物が生まれてくる。そこから、何事も釘付けではない、ね。改めるところは改めて、進んで行く。

 化け物が出るという話を聞いたら、それをいわば退治して行くというだけのですね、信心をさせて頂きながら徳を受けて行く訳です。徳を受けて行くから長生きさせて頂く。ね、年をとって行けばとって行くほどに有り難うなって行く。年をとって行けば、とって行くほどに、身についていく、言うならば家柄も、財産も、人間も立派なものになって、いよいよ子孫繁盛の基礎、元を作って行く。

 なるほど、高坂の爺婆的な、そこが私共の金光様の御信心させて頂く者は、また願いであると同じに、神様もそこを受けて欲しいという願いをお持ちになっておられるという事なんである。ね。それには、私共がやはり勇気がいる。ね、その勇気なしには、そこんところを、様々な人生のいわば関所的な物を通りぬけて行く事が出来ん。

 ね、確信に、いわば満ちた日々。ね、その確信っていうのはどこから生まれて来るか。66節にあるように、生まれる時、死ぬる時、ね。それこそ日柄も言わずに走っていねる。日柄も言わずにこの世に出て来ておるという、その事実をです。私共が踏まえて、ね。その途中だけが人間の得手勝手が許されるはずはない。

 それで、金は儲けた、地位は出けた、立身出世したと言うても、それは高砂の爺婆的な幸せにはなって来ない、それでは。ね、神様のお計らいによらなければ出来る事ではないのであるから、お計らいに順じた生活、いわゆる信心生活。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだから、その事だけ願う。

 その事だけ称えばいいと言ったような信心ではなくてです。私共、日常生活全体が、神様のお心に適うた生き方をさせて頂いて行かなければならないという事を、66節に教えておられる。ね、それには青年的、覇気に飛んだ生き生きとした元気な心がいる。

 決して、ドンキーホーテー的な、その無謀な、ね、例えば若さ、元気さという物をです、つまらない事に、その無くしてしまうといったような事ではなくて。間違いのない、確実な、確信に満ちた、その事に打ち込んで行くのだと。ね。して、そこに化け物が出るという事なら、化け物退治をして行くだけのです、私は勇気と言うか、ね、元気な心をいよいよ作って、いよいよ確信を、をいよいよ確信に満ちた物にしておかげを頂いて。ね、そこに信心、生きたくば信心して長生きせよ、長生きのおかげを頂いて、それこそ祝いめでたの若松様よと言うようなおかげになって来る。

 そういうおかげを、私共がこの、目指すと言うか。神様もそういうおかげを頂いてくれよと言って下さってあるのですから。そういうおかげを頂く為にはです、私共が、その途中がです、大変な勇気のいる事であり。元気な心で信心しなければ得られない事であり。ね、雨が降るから、風が吹くからというぐらいな事でへこたれておるような信心では出けないという事。

 今日私、青年会のその事をお願いさせて頂きよって、只今のような事を頂いた。その、高坂の爺婆の事を頂いて。ね、そして今朝の御理解を頂かせてもらったら、つい2~3日前に頂いたばっかしの、ここは御理解ですわね、66節は。それを、また改めてこう頂いて。なら、今日のここんところは、どこを頂くべきであろうかと思うたら、もう日柄方位と言ったような物でもです、これは日柄方位だけの事じゃないけれど。日柄方位的なそういうような物をです、打破して行くという事は化け物退治にでも出るくらいな元気がいるという事。

 ね、その元気な心が青年的信心でなさる、なして行かなければ出来る事ではない。昔から言うて来たことじゃから、金光様の信心なしよるけれども、やっぱ昔から言うて来た事はと言うて、その仕来りにやはり、そこから抜け出る事が出来ずに、いつもその化け物に脅かされておらなければならない。信心は、決して釘づけではない。だからその、ここが本当だ、これが本当だという事をハッキリ確信したなら、それを何を、例えばどういう障害があっても、それを打破して行くだけの。ね、次の信心に進んで行けれる、私は体制もやはり元気な心がなかなければ出来る事ではないといったような事を、今日は聞いて頂いたんですよね。

 どうぞ一つ、元気な心で信心させてもろうて。ね、一新した信心。ね、言うならば得手勝手な信心、生活から、信心からです、ね。本当に確信がいよいよ確信付けられて行くだけのような信心。ね、それには雨が降るから、風が吹くからえらいと思うような信心では、それは得られない。ね、そん時、そん時。目先、目先のおかげを頂いて行く事だけならば、それは良いかも知れない。

 けれども、いわば最後の目指す所がです。ね、そういう人間の思考と言うかね、最高の所のおかげ。神様もまた、そこんところを受けてくれよと願うておられるおかげと。そういう、おかげを目指させて頂いての信心。

 それにはどうしても、私共は生き生きとした信心が必要だ。それは青年的信心。それは私は、朝参り的信心と、こういう風に申しました。これは青年に限った事ではない。70になっても、やっぱりそういう内容に生き生きとした物を持っての信心を進めて行きたいと思いますね、どうぞ。


                  末永信太郎 5月21日